立法運動と司法の違い

司法というのは個人の権利が侵害を受けている時、その救済を求める手続です。
従って、法律という唯一絶対の基準に照らし、正しいか、間違っているか、を判断するのであって、多数決で決めるとか、金持ちが正しいとかいうことはありません。
一応建前上はですが。

でも、その建前を真正面から否定しても仕方がありません。逆に言えば、建前を前面に掲げる以上、大企業対個人であろうと、裁判という場で対等に言い争うことができるのです。逆に言えば、裁判という場所でない限り、個々の弱い人々の権利など容易に踏みにじられるでしょう。

個人であっても対等に裁判が出来るということは、当然、機会の平等しか意味しない訳で、内容として対等に裁判をしていくためには、その補助者となる弁護士代理人の役割はきわめて大きいということになります。
法律に照らして間違っているなら、その言葉を強大な権力にかき消されないように、裁判所に伝えていくことが司法の一翼を担う弁護士の責務です。

一方、法律の制定・改正を求める運動というのは、現存する法律が、どう考えても、成文法の上に存在する公平と平等の理念を規定するコモンロー(日本の場合は憲法及び憲法が実現を掲げる基本的人権の尊重)に反する内容である場合に、これを後者に適合するよう、既存の法律の改廃・新設を求める運動を言います。
弁護士が日常の業務の中で感じる矛盾、法律は本来、このようにあるべきではないかという提言、それを立法の担い手である国民に伝えていくことは重要です。

上記に説明したとおり、司法と立法の違いは、小学校で習う三権分立の通りですが、従ってそれぞれの場面で、どのように関わっていくかも、全く別の内容です。関連しているのは事実ですが、別です。

立法運動をする人は、同時に司法の手続において、何を矛盾と考えるのか、なぜ立法を求めるのかを自らの体験を通じて、それを国民に伝える必要があります。
シンポジウムと称して鼻息も荒く、集会を行うのは構わないと思います。
しかし、そのコンテンツは集会を開催する人たち自らが用意しなければなりません。
そうでないと、集会を開催するというのは口実で、他人の成果を引きずり出したいだけでしょ?と言われることになり、自身の体験していない事実をどうやって国民に伝えていこうというのでしょうか、という疑問に直面します。
そういう意味においては、今の集会だけに熱心な弁護士の集団は、もう少し、司法の意味と役割を真剣に考えるべきではないでしょうか。