裁判の行方に関心を、でも傍聴人の数では変わらない裁判

今日のタイトルは、福島の原発事故につき素晴らしいブログを展開している司法書士のある日のブログタイトルのパロディです。
この司法書士福島原発事故のことを書いている時は非常に共感できるブログ内容なのに、武富士の役員に対する裁判については、全く賛同できないブログ内容に変わってしまいます。

傍聴人の数で、裁判所の判断が変わることはありません。
もうそろそろ、傍聴人を動員して敗訴した事例の方が多いのではないでしょうか?
でもこういう弁護士らは、負けた時は別のところに理由を探し求め、決して自分達の裁判が雑だったことが責任であることを認めようとしません。

そもそも、傍聴人が多い事件で勝訴しても、それは傍聴人を動員したことに理由があるわけではありません。
しかし、請求の構成や、証拠の収集など、地道な作業を面倒くさいと考え、一部の真面目な弁護士に押しつける輩は、そうした弁護士の地道な努力によって裁判が勝訴に導かれたという事実を認めるのがイヤなので、自分達こそが勝訴に貢献したと考えがちです。
結果、法廷での意見陳述をした、俺らが偉い、傍聴人を動員し、あるいは裁判所前でシュプレヒコールをした(自分が目立ちたいだけなのに)俺らが偉い、俺らの行為があったから、裁判では勝訴したのだ、と思いこみたがるのです。
これが現在の、まず意見陳述、裁判所前でのビラ、傍聴席満席動員ありき、に繋がっているのです。

いい加減で気がつかないかな、と思うのですが、もうここまで来ると意地でも認めないみたいですね。この先もずっと同じことを繰り返すのでしょう。
これだけ、こき下ろし、ビラも撒かない、意見陳述もしない、傍聴人も呼ばない、私の方がよほど結果を出せているように見えますけどね。

私は、裁判では事実を大切にします。弁護士の裁判での仕事の9割は、依頼者の語る事実の真贋を見極め、真実に基づいて請求が構成できると判断した以上(出来なければ依頼の段階で、そのように言いますし、少なくとも、依頼者には、その希望を叶えてくれそうにない弁護士に依頼することで、他の弁護士への依頼の選択権を失うことのないようにしないといけませんので)、裁判において、その事実の立証に努めます。
裁判は詰め将棋と同じだと思っていますので、原告として提訴するときには、最後の詰みまで読み切って裁判をする必要があると思っています。

無論、裁判になって、相手方から、依頼者の説明にはなかった証拠が出てくることがあります。消費者側の弁護士である場合、それは多くの場合事実と違う記載のある書面です。たとえ、書面に依頼者の言い分とは違うことがあっても、そのことから直ちに依頼者がウソをついているということにはなりません。消費者事件というのはそういうものです。
なので、当初の提訴の時点から、依頼者の説明だけを頼りに裁判をすることはありません。その裏付けとなる事実を証拠によって立証出来ると踏んでから、提訴します。なのでそうした書面や相手方の主張には、ほんのわずかですが、本来その主張のとおりであれば存在するはずのない事実があるのです。
この不自然さが持つ違和感に対し鋭敏な嗅覚を持つことが、裁判という場において結果を出すためには非常に重要だと思います。これは自分が出来るという意味で言っているのではなく、そうしたものが重要であり、証拠を探し出すことに労力を惜しんではいけないという意味で、常に教訓として持ち続けていることだということです。

で、冒頭の残念な弁護士の人たちも、この総論には何の異論も示さないのです。ただ自分達は面倒くさがってしないだけで。自分はやらなくても誰かがやってくれるだろうと思っているだけで。
でも、功績は自分達のものにしたいのです。
今はそんな弁護士「だけ」が集まって、ビラを配り、シュプレヒコールを揚げ、傍聴人を動員し、わざわざ口頭弁論にして傍聴人に説明するフリをして裁判官に圧力を掛けようとする裁判をしています。
私はもう、この先彼らが裁判で結果を出すことは無いだろうと思っています。
そうした裁判は正直迷惑なので、辞めて欲しいとも思っています。
なので、こうして批判を続けながら、彼らとは違う方法で裁判を行い、結果を出すことが彼らに対するアンチテーゼになると考えるのです。