消費者側の危機

何度も言ってますが、
裁判所の前でビラを撒く
弁論期日で毎回毎回の浪花節意見陳述
傍聴席を関係者で埋める。

こうした手法は裁判の手段としては、むしろマイナスです。
町中でビラ配りをしたければしたらいいのです。立法活動として。
静穏のうちに政治活動をする権利はすべて国民の基本的人権として尊重されます。
しかしながら裁判の期日の日にわざわざ関連内容を裁判所の前でビラを配るという方法によれば、関連性が強すぎるが故に、裁判官あるいは裁判所職員を通じて裁判所に、圧力を掛けようとしたと受け取られることになるでしょう。
実際にやっている方もその目的でやっているようですし。
これが裁判所側の反発を招くということになぜ気がつかないのでしょう?
良くてせいぜい無関心です。裁判所の公平性を保とうとするために、努めて無関心でいようとするでしょう。
しかしながら、内心は圧力を掛けられたという認識に対する不快感しかないと思います。
同じ理由で浪花節意見陳述も同様です。
これが、むしろ争点整理のための口頭での要旨説明であれば、裁判所もよろこんじゃいますよ、きっと。
ところが、原告本人が、私はこんな被害を受けたなどという説明であれば、それこそ、尋問でやってくれよ、という話になるのは当たり前でしょう。

これだけ敗訴しても、一向にこのような手法を辞めようとしない。もはやそこにあるのは、理屈を無視した宗教的信仰です。

何度警告しても、忠告しても、批判しても、非難しても、一向に変わらない。
もう、無視する段階に来ているのかもしれません。

彼らは、無視と敵視のステージの順序を逆に理解していますが、批判というのはその存在を認識し、改善を求める行為であり、無視というのは存在そのものを否定することです。
無視の方が距離は遠いのです。

例えば、似通った裁判をしていますが、クレサラ対協に対しては批判しますが、サルに対してはその存在を評価すらしていませんので、冷笑侮蔑しかありません。改善を求めて批判したりなどしません。

これだけ忠告して無駄なら、クレサラ対協もサルと同じステージに上がってもらうしかないということになります。