実績の差は責任感の差

ちょっと前に、フェイスブックでシェアされていた格言みたいなもので、実力の差は努力の差、実績の差は責任感の差、判断の差は情報の差という言葉がありました。
本当にその通り。

自分がやらなくても誰かがやるから、結果を出した人に便乗すれば良いと思っている人と、誰かがやろうとやるまいと、私が依頼を受けたのだから、依頼者のために結果を出すと考えている人とでは、全然事件への取り組み方が違うし、その違いは最終的に結果の違いにも現れます。

一応、私なんか、新しいことを始める時に、同じようなことをするかどうか、他の人にも聞いてみるのですが、他の人は、今まで誰もやったことのない方法には腰が引け気味で、提案しても「そんなの言い出しっぺがやればよい」という態度に出る訳です。
うんざりして、自分一人でやるんですけど。そうすると、そういう輩は、しめしめ、先行してやらせることができたし、うまくいったら便乗しようと考えている訳です。
しかし、私は、自分一人でやるなら、たとえ結果が出せたところで、その結果を提供するつもりはないと考えているので、いざ、本当に結果が出た時に、さあ便乗しようと考えている弁護士にしてみれば、アテが外れたということになるのです。

心当たりありませんか?

ちなみに他人の努力に便乗しようと考えている残念な人は、上記の「判断の差は情報の差」という言葉の情報を「判例」だと理解しようとします。
私は、自分の足でかき集めた事実と証拠だと思っています。
http://www.kyototeramachi.jp/
に掲載している判例は、別にこっそりとやっていた訳ではなく、事前にこういう視点で裁判をしようかなと思うんだけど、という投稿をしていたものもあるのです。

また、他人の判例をもらって、それで自分も同じような事件処理が出来るようになる勘違いというのは、きわめて有害です。
判例の検討というのは、ゴールが分かっている状態で、ゴールからスタートへ向かって、「こういう経路をたどればゴールに着くんだ」と考える状態を言います。
しかし、これでは、どの時点で事実と評価が分岐するのか、ということが分かりません。
わかりやすくたとえると、競馬・競輪・競艇で負け続けるのに、ギャンブルをやめない人の発想に似ています。
結果が出た後なら誰にでも、その結果を予想できるのです。結果が出た後なら「自分はここでこう考えることが出来たはずだから、今度やれば万馬券も確実に取れる」という発想です。
結果が出た後なら誰にでも「予想できる」というのは、その言葉がもたらすパラドックスのとおり、「予想」ではありません。判例の検討というのは、ゴールまでの筋道が、舗装されて、誰にでも通れる道になると勘違いすることではないのです。


もう一つ
先日の夢のお話の続きですが、
同じ規範に対しても、裁判所による適用の結果に開きがあるのは裁判官の信念の問題であると結論づけて、一体そこから何が生まれるのでしょうか?
同じ最高裁の規範を援用しているのであれば、その規範援用の仕方が、裁判所ごとに異なるのではなく、代理人側の立証に問題があるのではないのですか?
そのような視点で、これまでの訴訟活動を批判的に検討するのでなければ、結局そこから何が生まれるというのでしょう。