常に歩み続けるということ

過去に、成功した事例があると、同じやり方にこだわろうとするのが人間の常です。
ですが、いつか手段は陳腐化し、効果はなくなります。
これが不特定多数の消費者の消費行動でもそうなのです。
まして、自分の成功は相手方の失敗というゼロサムの中で対立する業界では、相手もただ黙っていません。
羽生善治という将棋の人が、自身の著書でそのことを記していました。
将棋の定跡だって、その攻略法はすぐに見つけられ、いつしか定跡は定跡でなくなっていくのです。

裁判における判例ですら、なぜか覆るのです。法律の解釈なんてそんなに変わるはずないのに。
アプローチを変えられて、最終的な効果が全く逆転することになるのです。
そんなことにも気付かずに、裁判所の不評をかったクレサラのクレサル。
馬鹿の一つ覚えのように、同じ主張を繰り返し、いつしか気付いたらもう勝てない裁判になっていた。
特に、広く頒布される判例ほど、相手方もまた研究の対象とするということを自覚していないので、いつまでたっても同じ主張を繰り返す。

弁護士というのは慎みとは無縁の商売ではありますが、過去に一度結果を出したくらいで、私はその道のエキスパートです、みたいな発言は常識を携えていれば、恥ずかしくて出来ないのに、もう、この「常識」という言葉自体も死語であることは、昨今の弁護士による広告を見ていれば分かりますね。
過去に何度成功しようと、明日来る顧客の依頼は過去の事件と似ていても同一ではありません。
絶対に同じにはならないのです。時間軸が1秒ごとにずれていくからです。
その時間の流れの中で、自分に都合の悪い出来事、例えば、以前と同じ方法には、反論を準備しているかもしれないなど、は全て存在しないと傲慢にも思えた人間だけが、過去に私は成功したから今度も成功しますと声を高らかに宣言します。まあ、自分の言葉に対する責任感もないのでしょうから、そういうことを平気で言えるのでしょうが。
私は、そんな大風呂敷広げて、結果が出せなかった場合、信用し依頼した顧客に対する裏切りだと思いますので、最善を尽くすことをお約束出来ても、結果はお約束できませんと言及するしかありません。
自信のなさ、ではなく、責任のある言動からだとご理解下さい。それでも、どこのどの弁護士よりも、少なくとも多重債務の分野においては結果を出しています。

また、手法のマンネリについて言及するとき、どうしても触れておきたいのが、クレサラ対協のやっている。対策会議、集会、意見書、院内集会、です。
貸金業法の引下の時に、これらの方法が奏功した(と思っている)ために、何度やっても結果が出せると力一杯勘違いされておられます。
武富士の件では、ここまで全敗中なのに、都合の悪い結果は、別の要因を探し出し、それが原因だと言い張り現実からは目を背ける予定なのでしょう。

ここまでクレサラ対協に対し辛辣にならんでも、なんか恨みでもあるんか?と思われた方おられるでしょうか。
恨みはありません。変わってくれないかなあ、と思っているだけで。
上でふんぞり返っている人たちはもう救いようがないですが、中には自分で考えて行動し、結果を出せる人もいると思うのですよ。それが集団意識によって、人と違うことをするのは悪だみたいな雰囲気に晒されて、何もできなくなっているような気がします。
私は始めから当該集団には属していませんでしたから、そういうのはなく、自分の責任において自分で行動してきたことがHPの判例に繋がっていると思います。